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いあ!いあ!あい!あい!

2008年12月15日 hige

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ラブクラフトの小説は浪漫溢れるファンタジー。異論は認める。

クトゥルー神話や修飾語過多な怪奇描写などから世間的にはホラーでオカルトな作品群として認知されているようだが、どうしてそのような評価を受けるのか理解ができない。
元をたどれば空想にふける少年がポーやダンセイニに触発されて生み出した創作群である、そもそもホラーには成り得ないのだ。
分類するのならやはり幻想(ファンタジー)であろう。

ラブクラフトの書く類の怪奇小説は当時のアメリカで山の様に出ていたパルプフィクションの一つに過ぎず、扱いとしては通俗小説以外の何者でもなかった。
当時の状況は現在の日本の雑誌漫画よりひどい粗製濫造っぷりだったようである。

当然のように新奇さ、刺激性のみに特化したような作品がわんさか存在し、ラブクラフトの作品は違いはあるにせよ、表面上は見分けがつかないような作品たちの中に埋もれていた状態であったのである。
その中でラブクラフトのクトゥルー神話が有名になったのは(もちろん実力があったろうこともあるが)設定の斬新な使い方が大きい。
彼の作品では、作中の小道具やそのままでは短編として無関係な状態に置かれるはずだった作品たちが、同じ舞台背景を使うことによって大きな絵を描き出していったところにある。
彼の作品のみに留まらず作家の壁も越えて広がっていく一つの神話体系は人知を超えた壮大さを感じさせ、ある種の『畏れ』を喚起する。
こうして設定のひとつから名前が取られたクトゥルー神話は人気のシリーズ的な存在になったのだ。

さて、ラブクラフトの作品群を読むときには作中のグロテスクさ、怪奇、恐怖の表現に目を奪われがちだが、彼の作品の本質はそのようなものから喚起される単純な嫌悪や恐怖には無いと私には思える。
それらのものが重要でないわけではない。むしろ非常に重要と言える。だが見るべきはその後ろに広がるものだ。

邪神に祈りを捧げる信奉者たちが訴えかけるのはその邪悪さではなく、人が当たり前とする常識とのあまりの異質さだ。

魔道書が蠱惑的なのは書かれた知識が忌まわしいからでなく、それが仄めかす存在のあまりの巨大さ故だ。
砂漠の無名都市が壮麗なのは広大だからではなく、かつて存在した見知らぬ文明と閲してきた悠久の歳月があるからだ。

彼の書く物語は我々に既知の知識で理解できる範疇の外の宇宙を垣間見せてくれる。重要なのはその広がる海原の広大さなのだ。
大きな未知の浪漫を楽しむことができる小説群。それがクトゥルー神話と呼ばれる作品群であり。ラブクラフトの書きたかったものなのだろう。

個人的な感想を言うならば、最もクトゥルー神話的な作品群は夢の国関連の連作ではないだろうか。
グロテスクさも恐怖も無いが、あれがラブクラフトが真に書きたかった幻想ではないかと、そう思うのである。

蛇足、つらつらと書き散らしたが別にステロタイプ的なクトゥルーものが悪いといっているわけでもない。
単に、ラブクラフト個人の作品を読むならそのように解釈するのが最も適当ではないかと思っただけである。
クトゥルー神話群という大きなくくりで評価するなら、作家たちが世界観をシェアし、どこまでも広がっていくのがクトゥルー神話の最大の魅力とも言える。
たとえば、ダーレスに書かせると冒険小説になるし、ロバート・E・ハワードに書かせれば叙事詩的になる。
日本の作家では、菊池秀行なら伝奇になり、ニトロプラスなら燃えロボットものになる。
あらゆるジャンルで楽しめる非常にお得な作品である。

ちなみにブロックのほうのロバートに書かせるとトンデモになる。

読書感想文的には言いたいことの半分も書けてないけど、クトゥルーへの愛が止まらなくなりそうなのでここで〆

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