漆黒リボンは終焉に舞う【2】
外に出ると既に夕陽は沈み、街並を彩る残光が広がっていた。
背後で、ガタガタと鈍い音を立てながら自動扉が閉まる。
少し、遅くなってしまった。
僕はまだ肌寒い風の吹く、寂れた商店街の更に一本奥に入った裏道を歩き始める。夕方の帰宅時間帯を過ぎているせいもあってか、いつもなら数人は居る歩行者の姿は一人たりとも見えなかった。
あれから。
上条舞嘉がゲーセンを去ってから。
僕もすぐに帰ろうと、学生鞄の代わりに登校に使用しているスポーツバックを肩に掛けた所までは、良かった。そのまま帰路につけば何の問題もなく、陽が落ちる前にいつも通りこの道を歩いているはずだった。
そう、あの床に散乱したプリクラの残骸が目に付いてしまわなければ……
僕は立ち上がり、上条舞嘉がそのままにして行ったプリクラをじっと見つめた。原形を留めていない無惨な姿は、見て見ぬフリをするにはあまりにもその存在を強く主張していた。
気が付けば僕はプリクラだったものの傍に歩み寄り、腰を下ろしてその欠片達を集め始めていた。自分でも、何故そんな事をしているのかは判らなかった。ただ−−−−
ただ、悲しいような気がしたから。
自分の分身を切り刻んでばらまき、そのままにして去ってしまう上条舞嘉の心が。まるで、自分なんかこれっぽっちも大切に思っていないみたいで。自分だって人の事など言えないくせに、僕は生意気にもそう感じてしまったのだった。そういう人間は僕だけで充分だと、心の何処かで思っていたのかもしれない。
取り残された上条舞嘉の残骸をひとつに集める。それを丁寧に左手に乗せる。そっと紙切れが飛ばないように持ち上げると、ゴミ箱へと流し入れた。一瞬、躊躇っている自分に気付いたがすぐに振り切った。
上条舞嘉の分身達は、さらさらと僕の手から零れ落ち暗いゴミ箱の中へと消えていった。
いくらゴミ同様だとはいえ、人の顔の映ったものを捨てるというのは気分の良いものではない。だけどこれはただのプリクラで、上条舞嘉にとっては取るに足らない、そこらに放棄してしまえるレベルのものなのだ。
だから、別に僕が罪悪感を抱く必要は全くない。僕は何も悪くない。悪いのは、自分のプリクラを放置していった上条舞嘉だ。そう言い聞かせて、僕はその場を後にした。
四月も半ばだというのに、陽が落ちると途端に風が冷たい。その風と戯れるように、足元を桜の花弁が通り過ぎていった。
すっかり散ってしまった桜は、薄汚れ、もう誰も見向きもしない。過去、称賛と脚光を浴びていた頃の影すら見当たらない。僕は道端に散らばるそんな桜をわざと踏み付けながら、歩みを進めた。
暫くして再び桜が舞った時、あまりの大気の冷たさに我慢が出来なくなった。突き刺さる程の寒さではないが、じわじわと体温が奪われていくのを感じる。
春の夜、澄んだ空気を全身で受け止めながら、僕は制服のポケットに手を突っ込んだ。
……ふと、何かが指先に触れた。
ちくっと刺さるような感触に驚き、思わず手を引き抜こうとする。が、僕はそれが何かをすぐに思い出し、もう一度そっとその輪郭を確認した。
いびつな形をしたそれを摘むと、ポケットからそっと取り出す。
それは切り刻まれた分身の断片。
別れ際にゲーセンにて、上条舞嘉に受け取らされたプリクラだった。
薄闇の中プリクラに目を落とすと、そこにはこちらをじっと見据える上条舞嘉の整った顔があった。その表情を改めてまじまじと見て、僕は固唾をのんだ。
反抗的な目付き、きゅっと一文字に結んだ口元。何をそんなに威嚇しているんだ、という程睨みを利かせている。
証明写真じゃないんだから、もっと笑えばいいのに。
しかしよく考えてみれば、一人きりで映ったプリクラで満面の笑みを浮かべられても、残るのは違和感だけのような気がする。それに、上条舞嘉がどういった理由からプリクラを撮っているのかは定かではないが、決して楽しい事ではないのだろう。あんな狭い個室の中で一人、わざとらしい笑顔を作るなんて僕だったらまっぴらごめんだ。
それにしても−−−−
僕は、思わず苦笑する。
それにしても、きったねえ字だな。
プリクラらしい一面はそこくらいしかなかった。スタンプも背景も何も加工されていない。その文字列さえなければ、証明写真ミニチュア板と勘違いしそうだった。
顔の丁度真下、胸元の辺り。上条舞嘉から貰ったプリクラには、今日の日付と『マイカ』というサインが記してあった。急いでいたのか、走り書きをしたように乱雑に書かれた文字。しかし、最近の女子高生の書く変に角張ったり丸みがあったりする媚びた文字よりは、よっぽど好感が持てた。
何処も作っていない、ありのままの人間味溢れる上条舞嘉がそこに居た。
プリクラを見つめて、僕は自分の顔が緩んでいる事に気付くと、はっと足を止め周囲を見渡した。
誰も、居ない。
後ろを振り返る。その時初めて、僕はその異変に気付いた。
……こんなに人が居ない事って有り得るのだろうか。
裏道とはいえ住宅街も近いこの場所は、いつもならスーパーで買い物を終えた主婦や仕事帰りのサラリーマン、遊び過ぎた学生達が少なくとも一人は必ず居るはずだった。それが、人っ子一人見当たらないなんて。気にすればする程、不自然に思えて仕方無かった。まるで、何者かによって人払いされたような−−−−
考え過ぎ、だよな。
ふう、と溜息を吐いて進行方向に向き直り、歩き始めようと顔をあげた。その時だった。
誰か、居る。
ついさっきまで誰も居なかった道の真ん中に、人影が見えた。
人影はあたかも最初から其処でそうしていたかのように、少しも動かずにこちらを向いたまま沈黙を守っていた。距離にして約十数メートル。残光の中浮かび上がるその姿は、はっきりとは見えなかった。顔を認識するには遠過ぎたが、体型と腰まで伸びた長い髪からその人影が女性だろう事はかろうじて判った。
なんだ、人、居るじゃないか。
そう思って安堵の溜息を漏らしたのも束の間。
女はその場を動かずに大声を張り上げた。
「マイカは、何処?」
それが誰に向けられた言葉だったのか、理解するのに時間が掛かった。僕は周囲を改めて見渡し、突如として現れたその女以外誰も居ない事を確認する。という事はやはり、さっきの言葉は僕に向けられた言葉なのだろうか。しかし僕には、見も知らずの女に大声で話し掛けられるような理由もない。
それに大体、文脈が理解出来ない。いきなり、何処かと訊ねられてもそのマイカとやらが一体何なのか、僕には判らないのだから。
……いや、薄々は感付いていた。だからこそ、僕はまだ手にしていたプリクラに視線を移したのだった。
そこには、じっと僕を見据える女の子。上条舞嘉がいた。
「もう一度だけ聞く。マイカは、何処?」
プリクラを見つめていた僕に再び大声が届いた。しかしそれが僕に向けられたものだと判っても、僕は返事が出来なかった。女の言う『マイカ』が上条舞嘉とイコールで結び付くと確定した訳ではないし、もしそうだったとしても僕は上条舞嘉の行方なんか知らないし興味もない。
「答える気がないなら……覚悟は出来ているということか」
覚悟? 覚悟って一体、何の覚悟だ?
戸惑いも手伝い僕が口を開けずにいると、女はゆらりと右手を高く掲げた。その動作は時間の流れを自在に動かすかのようにスローモーションに見えた。その右手が丁度、女の頭上に差し掛かった、次の瞬間。
ひゅいっ!
耳元で、風を切る大きな音がした。
そして……視線の先に居たはずの女の姿は、綺麗に消えていた。
あまりに突然の出来事に僕は何が起こったのか、理解出来ずにいた。ただ、呆然と僕は立ち尽くし、誰もいなくなった薄汚れた桜の絨毯が残る道を見つめていた。
僕は、夢でも見ていたのだろうか。
しかし、すぐにそんな淡い期待の交じった思考は覆される事になる。
「ちっ。外したか」
今度は背後から、呟くような微かな声が聞こえてきた。その声に反応して振り返ると、何故か僕のすぐ後ろに女が居る。僕は驚いて、女から身体を離していった。本能的に、これはやばい、と悟ったからだ。
しかし、足が思うように動かない。本当は今すぐにでも駆け出したい気分だったのだが、じりじりと後退していくしかなかった。それも、ほんの悪足掻きにしかなっていない。女は長い髪を揺らしながら、にやりと妖しく笑った。勝利を確信した、実にいやらしい笑みだった。
ふいに、右頬が熱くなり、ひりひりしてきたのに気付く。僕は嫌な予感がして、プリクラを握ったまま右手の甲で頬に触れてみた。
ぴりっとした痛みが走って、僕はすぐに手を離す。見ると手の甲には、はっきりと判る程の赤が付着していた。
なん……だ、これ……?
外した、という女の言葉。触れると頬に走る痛み。手の甲に残された赤色の跡。全てを総合して考えてみれば、答えは明白だった。
血、なのか……?
そう、僕は頬から血を流していた。恐らく、あの風を切る音がした時。あの時に受けた傷だろう。女にやられたに違いない。けれど、それが自分の身に降り掛かった現実だとはどうしても思えなかった。だからこんなにも冷静に分析が出来るのだろう。それでも、傷を受けた事は確かで、そう意識し始めた途端に僕の右頬は痛みを増していった。
これは、本当に、やばいかもしれない。
僕は何も判らないまま、ただ自分の命の危機だけを感じていた。
怖い、とかそんな感情は特に湧いて来なかった。だけど、ずっと握り締めていた右手の力が急速に抜けていったのは、やはり恐怖に支配されていたからなのだろうか。
そして。
全身の力が抜ける。
後退しながら僕の身体は、がくんと崩れ落ちかけた。
その拍子に、緩んだ手の隙間からプリクラが僕の手を離れる。
地面に舞い落ちるそれを自然と僕の視線は追っていた。
……さようなら、僕が最後に言葉を交わした変な女の子。
自分の末路を想像しながら、そんな思いを抱いた。
その時だった。
ぱあああっ−−−−!
プリクラが輝き始めた。
と思うと、驚く暇もなく。
瑠璃色の光が足元に落ちたプリクラから放たれ、僕の全身を包み込んだ。
まるで、僕を守っているかのような優しさに満ちた不思議な光だった。
そして、光の中で、僕は確かに見た。
僕の目の前で、セーラー服の短いスカートと臙脂のスカーフが、そして漆黒のリボンが風にはためく、その姿を。
「まんまとかかったわね!」
それに聞き覚えのある、高慢で勝ち誇ったようなその声が加わり、僕は確信した。
「上条……舞嘉っ……?!」
思わず、そう叫んでいた。
だけど、僕の予想はハズレではなかったようだった。
僕の声に反応して振り向いた制服姿の女の子は、やはり上条舞嘉、そのものだった。
でも、どうして此処に……? どうして僕の目の前に居るんだ?
そんな声にならない疑問に答えが返って来るはずもない。代わりに聞こえてきたのは、相変わらず上から目線で、態度の大きさが手に取るように判る高飛車な口調の発言だった。
「フルネームでわざわざご紹介ありがとう。でもね、今はちょっと、それどころじゃないのよね。見て判るでしょう、この状況」
「判んねーよっ!」
本当に、ちっとも判らない。この瑠璃色の光は一体何なのか、なんで僕が女に攻撃されないといけないのか、なんで上条舞嘉が此処に居るのか、なんで…………なんで、僕は上条舞嘉が登場する事を心の何処かで期待していたのか。
叫ぶ僕をちらりと見下ろすような仕草をすると上条舞嘉は、プリクラに映ったあの顔ではなく、ゲーセンで見せた威圧感もない実に穏やかで柔和な微笑みを僕に向けた。
安心して。
そんな心の声が聞こえた気がして、僕はその微笑みに見蕩れていた。
「説明はあとで。まずはあのおばさん、黙らせないと……」
そこまでで息を吐き切った上条舞嘉は目を閉じて、今度はすうっと大きく息を吸い込んだ。
「ねっ!」
かっと瞳を見開くと、もう表情が変わっていた。一気に真剣で険しい顔付きになる。けれど何処か嬉々としている印象を受けたのは、口角が微妙に上がっているのを僕が見逃さなかったからかもしれない。
タンっ、と軽やかな靴音を立てて上条舞嘉は大地を蹴り、高く飛び上がった。その時生じた風に乗って、桜の花弁が生き返ったかのように宙を舞っていた。
to be continued……