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漆黒リボンは終焉に舞う【3】

2009年4月5日 sayuri

 月影も街灯もない、残光すら消え果てたこの世界は緊迫した闇に包まれている。僕は夜の帳が下りた裏路地で、華麗に飛び上がる女の子の姿を食い入るように見つめた。しかし、目の前で瑠璃色の光が邪魔をしてはっきりと認識する事は出来なかった。

 瑠璃色の光の壁の向こう側にぼんやりと浮かぶ、見覚えのある後ろ姿。

 短めのプリーツスカートを翻し、腰まで長く垂れ下がった黒色のリボンを揺らして。

 上条舞嘉は軽々と高く宙を舞い、さっと僕の視界から外れた。その一連の動作は『跳んだ』というよりは『飛んだ』という表現の方が的確だろう。もしくは『消えた』と言うべきなのかもしれない。気付けば僕は上条舞嘉を見失っていた。

 辺りを見回しても上条舞嘉の姿は何処にも見えなかった。空高く飛んで行ってしまってもう二度と地上へは帰って来ないのではないだろうか。そんな不安に襲われた。僕は何もない夜空を仰ぎ見た。

 それから、ふと脳裏に浮かんだ思考を打ち消すように、僕はぶんぶんと大きく首を振った。そう簡単に人間が飛んだり消えたり現れたりする訳がない。

 だけど、僕の不安が消える事はなかった。いくら首を振っても、僕の不安は肥大化する一方で、瑠璃色の光の温かさがなければとっくに発狂していてもおかしくはなかった。

 まだ、上条舞嘉が此処に居る気がした。

 もう、上条舞嘉は何処にも居ない気がした。

 光の中で身動きの取れない僕は、自分を保つ為に必死に叫んだ。

「おい、助けてくれるんじゃないのかよ? 上条舞嘉!」

 気付けばそんな悲痛な叫び声が発せられていた。そうして僕は涙の零れそうな目を見開いた。

 僕は、上条舞嘉に助けを求めていたのか。

 あんな目に遭ったせいか、颯爽と登場した上条舞嘉が助けてくれるとでも思っていたのか。

 冷静になって考えてみれば、なんて馬鹿なのだろう。

 だって、上条舞嘉はただの同級生であって、隣のクラスの女子であって、救世主でも美少女戦士でも何でもない。普通の、いや、少しだけ変わった女の子のはずだった。

 僕は上条舞嘉に、何を期待していたのだろう。

 過度な期待をしていたのだろうか。

 上条舞嘉が自分を助ける為に現れたなんて、思い違いも甚だしいってやつだ。

 そう、僕が全てを諦めた時、頭上から声が降り注いだ。

 

「え? 誰がそんな事言ったの?」

 後方右上からぴしゃりと放たれたその声の主が誰なのか、僕は判っていた。

 ばっと振り返る。

 そこにはコンクリートの塀の上、しゃがみ込んで頬杖をついている上条舞嘉の姿があった。

 にやりと僕を見下ろしている。今迄の僕の思考を見抜いているかのような含み笑い。ずっと、背後から困惑する僕を見ていたという訳か、なんとも悪趣味だ。などと思いながらも、僕の胸は高鳴っていた。

 其処に、上条舞嘉が居るという現実。幻なんかじゃない。それだけで。

 僕は今にも上条舞嘉に飛び付きたい気持ちだった。が、身体は全く言う事を聞いてくれない。恐らく僕の全身を包み込んでいる、この瑠璃色の光のせいだろう。

 そんな僕の考えを察してか、上条舞嘉は簡潔に僕の状況を説明してくれた。

「澤サンはね、ただの囮なのよ」

「は?」

 囮って、なんだ? 何を言っているんだ、上条舞嘉。

 しかしその言葉が、上条舞嘉が僕の期待通りの存在である事を示しているのは明らかだった。

 やっぱり、ただの普通の女の子なんかではなかった。それがこれから証明されようとしている。その事実に僕の気分は急激に高潮した。

 期待と興奮が僕を支配し、さっきまでの不安は上条舞嘉が登場してからというもの何処かへ飛んで行ってしまった。

「だからね、黙ってそこで、見てなさい」

 いい子だから、とでも続けたそうな微笑み。その笑みに呼応するように、僕を包む瑠璃色の光はその輝きを増した。そして光は檻のような形状に変化し、僕を完全に閉じ込めた。

 それをしているのは間違いなく、上条舞嘉の意思だ。そうでもなければ、そんな僕の姿を見ていつまでもにこにこと不敵な笑みを浮かべている訳がない。

 少なくとも、この瑠璃色の光は敵と思しきあの女にやられている訳ではないらしい。

 ふと急に思い出した、女の存在。僕は今この瞬間まで無視してしまった事を女に謝罪したい気持ちになった。上条舞嘉の前では、女への恐怖など綺麗さっぱりと消え去り、女は空気と化していた。それ程、上条舞嘉の存在感は僕にとって強烈なものだった。

「あ、それとね」

 上条舞嘉は相変わらず笑顔のまま、すっと立ち上がった。コンクリートの塀の僅かな幅の上、器用にバランスを取っている。短いスカートの中身が見えそうで見えない角度に、僕は思わず赤面した。

 何を想像しているのだ、僕は。

 何を期待しているのだ、僕は。

 暗がりの中ではそんな僕の表情も読み取れるはずもなく、上条舞嘉は淡々と話を続けた。

「あたし、上条舞嘉って呼ばれるの、嫌いなの。虫酸が走るの。だから、マイカって呼んで。ていうか、呼びなさいね」

 早口で捲し立てる上条舞嘉の笑顔をよくよく見てみると、目は笑っていなかった。

「ほら、呼んでみてよ」

 呼ばないと殺すわよ、とでも言いたそうな瞳。すごみ方が半端じゃない。目力とかそういったレベルではない。その眼力だけで人くらい簡単に殺せてしまいそうな勢いだった。

 相変わらず高飛車で人を文字通り見下している上条舞嘉。いや……

「……マイカ」

 僕は蛇に睨まれた蛙状態で、それだけ呟くと固唾を呑んだ。マイカの出方を伺っていたのだ。

 マイカは僕のその返答を聞くや否や、瞳の奥から優しさを滲み出して、さっきまでとは別人のように愛らしい笑顔になった。

「ん、よく出来ました」

 野に咲く一輪の健気な花が揺れると、僕の心も穏やかになった。マイカが見せる顔のどれが本当なのか、出逢ったばかりの僕にはわからなかったが、今のこの表情が一番好きで落ち着いた。

 

 しかし、次の瞬間にはもう、花は手折られていた。マイカ自身の手によって。

「じゃ、いっちょやりますか」

 そう言ったマイカの顔は、か弱さなんて微塵も見せずに、王族のような気高さと権威を彷彿とさせた。

 ぱっちりと開閉する瞳の先には、あの女の姿しか見えていないようだった。真っ直ぐに女を見据えると、マイカはその右手をそっと自分の後頭部へと運んだ。

 するり。

 ポニーテールを結わえていたリボンを解いた。

 ふわあっとセミロングの黒髪と長いリボンが夜の風に靡く。

 夜陰に溶けて今にも同化しそうに見えた。

 しかし、纏う闇より漆黒なその輪郭は、くっきりと世界に映し出されたまま。

 冥暗よりも、深くて濃い、黒い影の存在。

 それが、マイカだった。

 

 一度だけゆっくり瞳を閉じると、マイカはリボンを高く掲げて、夜風にリボンを預けた。

「ムーンレスナイト」

 ぞくっとする程低く冷酷な声が響く。

 さっきまでのマイカと同じとは思えない、地の底から這って出て来たような声だった。

 と同時に、新体操の競技のようにリボンを華麗に踊らせるマイカが居た。

 自分の右手にリボンの先を何巻きかさせて、それでも自分の身長よりも長さのあるリボンを器用に動かしている。

 闇夜に輝く、たった一人の舞踏会。

 マイカはただひたすら、リボンを舞わせていた。

 その行為に何の意味があるのかなんて、そんな無粋な事は考えられなかった。

 ただ、美しかった。

 僕はマイカの姿に見蕩れていた。

 そうして、気付けば。

 僕を囲っている瑠璃色と同じ光が、マイカの胸の辺りにぼんやりと滲んでいた。

 セーラー服越しでもはっきりと判る程、光は次第にその輝きを増していった。

 そして。

 その光がマイカを飲み込みそうになった、その瞬間。

 しゅんっ。

 音を立てて、光は一本の線となった。

 その一筋の光は、女に向かって真っ直ぐと放たれていた。

 すると女の身体からぬるりと幽体離脱でもするのかのように、黒い影が抜け出て来た。

 僕は驚きのあまり声も出せずに、その光景をただ見つめているだけだった。

 女から出て来た黒い影は、いびつながらもよく見ると人の形をしているようだった。正直な感想を言ってしまえば、気色悪い。僕は胸をぎゅっと掴まれるような感覚に襲われた。

 マイカはといえば、平然としてそんな女の様子を観察している。見つめる視線の先には、あの黒い影。マイカはそれを愛おしむようにも、哀しんでいるようにも見えた。けれど実際は、ただ見下ろしているだけだった。本当に、何の感情の介入もなく、ただ、見下ろしているだけ。

 特別な事など何もない、といった表情でマイカはそっと、夜風に乗せて、女へ向け囁いた。

「あなたの闇夜に、溺れなさい」

 漆黒のリボンをひらりとマイカが胸の辺りで泳がせる。

 すると女の身体から抜け出て来た黒い影が、今度は女を取り込むようにして襲い掛かった。

 

 影に呑まれて、女は悲鳴をあげる事なく、その存在を終えた。

 

 抵抗一つしないで、自分の影に呑まれる姿は、まるで女が本心からそれを望んでいたかのようにも見えた。

 再びマイカがリボンを一振りすると、今度は女を呑んだ黒い影がさあっと溶けるように消え去った。言葉の通りに、消え去ってしまった。

 そして、誰も居なくなった道に、いつも通りの時間が流れ始める準備が始まった。

 あっという間に、決着はついた。

 

 瑠璃色の光はいつの間にか消えていた。マイカの胸からも、僕の周囲からも、消えていた。それに気付くのに時間を要する程、僕は目の前で起きた出来事を処理する為に脳味噌をフル回転させていた。

 マイカはあれだけ動いていたにも関わらず、息一つ乱さずに腕を組んで立ち尽くしていた。その冷酷な瞳には、漆黒の闇だけが映されており、僕の事などすっかり視界には入っていないようだった。

「終焉って、あまりにも静かよね」

 マイカがその手に握って居る漆黒のリボンがいつまでも風にはためいて、僕は息を呑んだ。

「本当に。驚く程、静か」

 凍り付いた時間が動き出すまで、マイカはその冷たい横顔で月の出ていない闇夜を仰ぐ。その姿は遠吠えをしようとする寸前の、狼の孤高で満ち溢れていた。


to be continued……

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