漆黒リボンは終焉に舞う【6】
マイカの手が、セーラー服の大きな襟を滑らかになぞりながら、その間のV字になっている布の部分に伸びる。
後から聞けば、この部位は胸当て、と呼ばれるらしい。マイカはその胸当てを留めている唯一のボタンをパチン、と外した。その音は狭いプリクラ機の中、僕の耳に何度も反響して届いた。
はらり、と胸当てが前に捲れる。マイカの透き通るような白い肌が露になった。僕は只呆然として、マイカの一挙一動を見つめていた。何が起こっているのか、理解出来る範疇を越えていた。無理矢理僕を連れてゲーセンへやって来て、プリクラ機に入ったと想ったら、意味ありげにセーラー服を脱ぎ始めるマイカ。まるで僕を挑発でもしているようなその目つきは、何かを企んでいる時のあの笑みを湛えていた。
スカーフを通していた部分もボタンで留まっているらしく、続いてその部分もマイカは躊躇せずに外した。
僕は思わず顔を逸らす。しかし視線はマイカの胸周辺をぎこちなく辿っていた。やはり僕も男という事なのだろう。いや、目の前で女の子がいきなり胸元を開け始めたら、見ないというのは逆に失礼なのではないだろうか。言い訳が頭の中を巡り、そんな思考の最中でも視線はしっかりとマイカの胸元に釘付けになっていた。
マイカが最後のボタンを外すと、レースをあしらった白いブラジャーがその姿を現した。僕はとうとう我慢出来なくなり、下を向いて声を上げた。
「マイカ! 悪ふざけはいい加減に……」
「澤サン。静かにして」
その強靭な発声に、僕の震えたか弱い叫び声はかき消された。
「ねえ、そっち向いてないで、もっと良く、見てよ」
マイカの甘ったるい声が身体中に響く。僕の心臓は今迄生きて来た中の最高速度で鼓動を刻んでいる。
見るべき、なのか……?
本人が見てと言っているのに、見ないのもどうなのかとは思う。思うの だが、どうしても踏ん切りが付かない。僕の中の残された理性がその行為を思い留めている。
誰も見ていない。此処では二人きりだ。でも。だけど。
やっぱり、そんな事、僕には出来ない。
そうきっぱりと心に決めるとなんだかすっきりとした。そうしてマイカの申し出を断る為、おずおずと声を発する。
「そ、その……僕とマイカは知り合ったばかりだし、そういうのはちょっとまだ早いんじゃないかなって、思う……んだけど…………その……あの……」
「は? 澤サン、何言ってるのよ? 勘違いも甚だしいわね」
僕が精一杯戦い、勝利した理性からの結論を根底から揺るがすような一言が突き刺さった。
何? 勘違い?
この状況で何処をどう間違えて認識すれば勘違いが生じるのか、教えて欲しいくらいだ。寧ろ、間違えているのはマイカの方じゃないのか。そんな思わせぶりな態度をとられて、こっちはたまったもんじゃないんだ。
「と、とりあえず服をちゃんと着て……」
「見て貰わなくちゃ、此処まで来た意味が無いのよ」
「で、でも……それは…………出来ないよ!」
ふう、とマイカの溜息が聞こえたかと思うと、物凄い力を僕は両肩に感じた。それは、マイカの両腕だった。
「いいから、こっち向きなさいよっ!」
力技、としか言いようが無い。マイカは拒否する僕を無理矢理自分の方へと向かせた。その腕力は女の子のものとは思えない程だ。僕はあっけなくマイカの方を向く事となった。のだが。
「う、うわあ!」
マイカの力が強過ぎて、バランスを崩した僕は思いっきり倒れ込んだ。勿論、マイカを押し倒すという、理由はどうあれ結果的には最悪な事態となってしまった。
「ご、ごめん。そういうつもりは全く無くて……」
僕はマイカを上から見下ろす形で、言い訳を始める。自分でも情けないとは思うのだが、口から出てしまったモノは仕方が無い。
「ようやく、見える位置ね」
「え?」
「ほら、此処。あたしの胸元、見て」
気が動転していた僕は、マイカのはだけたセーラー服にようやく気付き顔を真っ赤にする。と同時に、其処にある違和感にも気付く。女の子の胸なんか実際には見た事もないのに、そこにそれがある事は明らかにおかしい事がいくら間抜けな僕にも判った。
ブラジャーの丁度真ん中、胸の谷間にあたる部分には、黒く光る握りこぶしより少し小ぶりな水晶のようなモノが見えた。
「え……」
これって……なんだ?
僕はようやく落ち着いた頭で、その水晶らしきモノをまじまじと見つめた。それはどう見ても、マイカの胸元にすっぽりと埋まっているようだった。もしくは、胸元から生えてきているようにも見える。どちらにせよ身体の一部に鉱物が存在している、という現象は尋常ではない。
黒い水晶を発見した僕はそれに魅入っていた。それは、今迄見た事の無い程の澄んだ輝きを放っている。深く深く、堕ちていく、黒の世界。見つめれば、何処までも遠くへと連れていってくれる。美しいと形容してしまうのは実におこがましい。そこには美しさだけでなく、この世界の全てが孕まれている。まるでパンドラの箱だ。僕はその箱に触れるべきか迷って、そっと手を伸ばした。
瞬間、ぱしっと切れの良い音がプリクラ機内に響く。はっと意識を取り戻すと、伸ばしかけていた僕の手をマイカが掴んでいた。
「澤サン、調子乗り過ぎ」
その呆れた溜息交じりの声で正気になった僕は、顔から火が出る思いだった。すぐさまマイカから離れると、両手を挙げる降服のポーズで悪気は無かった事を必死に示す。
マイカはそんな僕にはお構いなしで、ゆっくりと上半身を起き上がらせると、胸元の黒い水晶を愛しげにそっと撫でていた。
「これ、他人に見せた事は無いんだけど……百聞は一見にしかずって言うしね」
水晶を見つめるマイカの瞳は、母性で満ち溢れていた。ゆっくりとその視線を僕の方へと投げかける。どきり、とした。その微笑みは何より優しくそして厳かに息衝いていた。
「これが、あたしの秘密」
マイカはそう呟くと、ようやくセーラー服のボタンを留め始めた。
「聞きたい事は色々あるとは思うんだけど、詳しくはまだ教えられないの。ただ……」
パチン、パチン、とボタンの閉まる音が再びプリクラ機の中に響き渡る。僕はようやく身体中の緊張を解いて、マイカと向き合う事が出来た。
「これのせいで、あたしには不思議な能力があって、ついでに変な奴等に追われてる身、って訳。それだけ、伝えたくて」
それだけの為に?
僕は訳が判らなくなった。そんな事、口で説明すれば済む話じゃないか。
でも、どうだろう。もしマイカがそれを口頭で説明したとする。そうしたら僕はその全てを信じ切れただろうか。多分、出来なかったと思う。だって、そんな突拍子も無い事を突然言われても、僕の思考回路は稼動が追い付かない。
さっきの戦闘を目撃した事などを考えれば、判らなくもない話だけれど……。僕は、あれが現実だったかどうかと聞かれたら、判らない、と答えてしまうだろう。
「どう? 理解出来なくても、納得は出来るんじゃないかな?」
そうなのだ。確かに、理解は出来ていない。しかし、納得はしている。それは全て、あの黒い水晶を見たせいだった。あの水晶のせいで、その前の戦闘も現実味を帯びたものとなったのだ。
もう、マイカの言葉を疑う逃げ道は、僕には用意されていないという事か。人間離れした、あの水晶を埋め込んだ身体を見てしまったが最後、もう今更マイカと関わる事を辞められない。もしそんな事を考えようものなら……僕も、漆黒に呑まれて消滅するのだろう。あの敵と思われた、女の人のように。だから。
だから? いや、違う。それだけではない。けれど、言葉では上手く説明出来ない。だから。
僕は、力強く頷いた。
マイカは、にっこりと微笑んだ。
「あ、訂正」
床から臙脂のスカーフを掴むとしゅるり、と音を立たせてマイカはそれを丁寧にセーラー服の襟の下に忍ばせる。
「これ、他人に見せた事あるけど、見た事のある人で生きてる人間って誰も居ないから」
「え、それって…………」
「ま、せいぜい、生き抜いてよね」
そう楽しげに笑いながら、マイカは後ろからスカーフの両端を胸元へ持って来る。
パチン。
最後のスカーフ留めのボタンが閉まる音は、やけに高らかに僕の混乱した頭の中で共鳴した。
to be continued……